2010年8月1日(日曜):
イエスは言われました:「私の民よ、盲目の指導者であるファリサイ派を叱ったことを覚えていますか。彼らは兄弟の目にある小さな欠点を見つけようとしましたが、自分の目を覆う大きな梁には気づきませんでした。誰も判断しないようにしなさい。すべての判断は私にお任せください。ファリサイ派は預言者たちの言葉を語りました。私の民に彼らの言葉に耳を傾けるよう命じましたが、行動には従わないようにしました。また別な方法で物質的なものばかり気にしないで、魂のためにもっと価値がある天国のことを求めなさい。豊かな収穫をどうやって保管するか心配していた富裕な男を見ましたね。そこで彼は大きな倉庫を建て、収穫がしまわれると数年間の安心感を得たのです。しかしその夜、富裕な男は死に呼び出され、何も持参できませんでした。あなた方が自分のために財産を蓄える時間を過ごすと、私こそ崇拝されるべきであることを忘れてしまいます。人生の焦点を私と天国に向け、地上のことよりもしてください。富を他人に使ってあげると、もっと価値がある天国での宝物を蓄えることになります。私が命じた道を守る者は、永遠の天国で報われるでしょう。」
イエスは言われました:「私の民よ、私はあなたがたに聖書、礼拝の時間、キリストの模倣、そしてピエタ祈禱書から多くの良い霊的な読み物を提供してきた。あなたは十字架でいくつかの殉教者が殺され、苦しめられた場所を訪れたとき、人々はその一つの殉教者が「十字架の王道」の第12章から朗読しているのを見ました。多くの北アメリカの司祭たちも、十字架と共にクルシフィクスを持って描かれています。カテリ・テカウィタさえ私の十字架を持ちました。今日の熱心なキリスト教徒にとって、私の十字架を担うことはまだ重要な部分です。これはあなたの試練について文句を言わずに、その試練を受け入れることが、私の意志に従ってすべてを行うことを通じて霊的生活を完成する方法であるということです。自己否定は簡単ではありませんし、それは自分自身の意思を捨てて私の神聖な意志の中で生きるという意味です。あなたはまだこの世界で暮らしており、物質的なものに誘惑されますが、これは肉体が欲するものです。真に聖なる生活を送るためには、魂の欲望が肉体の欲望を圧倒する必要があります。これが私の恩寵と私の聖祭によってのみ達成されることができるとします。祈りと本物の断食により、あなたは肉体の欲望に勝ち、あなたの魂には私の真実の平和があるでしょう。」